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日本の三代怨霊その3〜崇徳天皇

 さて、日本の三大怨霊を紹介していますが、今回は最後の人物、崇徳天皇をご紹介。今まで紹介した「菅原道真平将門は非業なる死から、「何か祟りがあるに違いない」と何かと脚色された感じがありますが、今回の崇徳天皇は、死ぬ前から我、日本国の大魔王となり、天皇家を呪うと宣言した恨み節満載の人です。「日本最大の怨霊」と呼ばれる所以でしょう。

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◆複雑な生い立ちを噂された崇徳天皇

 崇徳天皇(1119〜1164)は父親は公式では鳥羽天皇とされていますが、本当の父親は曾祖父の白河法皇ではないかと当時では噂されており、いわば公然の秘密でした。
 鳥羽天皇にしてみれば、本当の息子である次男の
雅仁親王(後白河天皇)の方が可愛いですし(但し、遊び呆けて出来は悪いと言われていた)、白河法皇にしてみても、実の息子?である顕仁親王(崇徳天皇)を何かと贔屓してしまいます。
 その後ろ盾もあってなのか、鳥羽天皇は21歳で第一
皇子の崇徳天皇に半ば強引に譲位させられ、その後も実権を白河法皇に握り続けられていました。息子であって息子でない(?)崇徳に帝位を奪われるというかたちですね。

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 白河法皇亡き後、鳥羽上皇は、ようやく実権を手にいれることができ、院政を敷くことができたのですが、この時点ですでに復讐の芽が芽吹いていたと思われます。
 鳥羽法皇は、それまで白河法皇サイドだった人々を左遷し、逆に白河法皇に虐げられていた者たちを復権させます。

 更に、崇徳天皇たちの子孫が皇位につけないように罠を張るのです。「お前の子孫たちには絶対に帝位は渡さん・・・」という復讐の念が崇徳に降りかかります。
 
鳥羽法皇は、寵愛していた美福門院得子の子、体仁親王(近衛天皇)を養子にするよう、崇徳天皇に勧めます。その上で、体仁親王を天皇に立てれば、崇徳天皇は天皇の父として院政を行えると、善意を装って崇徳天皇に持ちかけるのです。
 「父はなんだかんだ言っても私の事を思ってくださるのだなぁ」と崇徳天皇は喜ぶのですが、これが罠だとはまったく気づかなかったようです。この時、崇徳天皇、若干23歳。無理もないかもしれません。

◆罠に仕掛けられた崇徳天皇

 
崇徳天皇は父の鳥羽法皇に勧められるまま、体仁親王を養子にして帝位を譲位しました。近衛天皇の誕生です。崇徳天皇は上皇になりました。
 しかし、近衛天皇即位の宣命には「皇太」ではなく「皇太」と書かれていました。つまり、崇徳は「子」ではなく「弟」に譲位したことになったのです
 子ではなく、弟に譲位・・・・この一文字のために崇徳上皇は政治から追い出されることに・・・。崇徳上皇の怒りは頂点に達します。「父上はそこまで自分を毛嫌いするのか!」と。
 崇徳上皇にしてみれば、自分で父親を選んで生まれて来たわけではないのです。出生は自分の責任ではありません。
 こうして恨みの情念は、
鳥羽法皇から崇徳上皇に伝播します。今度は、崇徳上皇が復讐の機会を伺うことになります。
 その機会ですが、14年後に意外にも早くチャンスが訪れます。近衛天皇が17歳の若さで早世するのです。いや、崇徳上皇の怨嗟が近衛天皇を早世させたかもしれません。これで、我が子の重仁が即位すれば天皇の父として院政を行えるのですから。

 しかし、
鳥羽法皇の執念も深いものでした。鳥羽法皇は、遊び呆けていて出来が悪いとまで言われていた自分の息子である雅仁親王を天皇にするのです。そこまでして崇徳側には帝位を譲ろうとはしなかったのです。
 
その後、
雅仁親王の息子にすぐに譲位させるつもりだったのですが、雅仁親王は後白河天皇として帝位につきました。この時、雅仁親王は29歳。後に平家と源氏を操り「大天狗」とまで呼ばれるようになるのですが、この遊び三昧の若き天皇がそこまで成長するとは、この時はまだ誰も知るよしもないでしょう。

◆ついに始まった対立。保元の乱。

 完全に望みが絶たれ絶望の中に落とされた崇徳上皇ですが、その恨みを利用しようと、近づく者たちがいました。鳥羽体制から締め出された者たちです。
 また、それに対立していた者たちも新しい後白河天皇に近づきます。後白河VS崇徳という、両陣営が徐々に出来上がりつつある中、
鳥羽法皇が崩御します。

 父親から忌み嫌われていた崇徳上皇ですが、やはり父親。急遽、駆けつけるのですが、鳥羽上
院近臣たちに遮られ、中に入ることは許されませんでした。
 生前
、鳥羽法皇は「崇徳には自分の死に顔を見せるな」と遺言していたとも言われます・・・。 鳥羽法皇の崇徳上皇に対する嫌悪は最後まで凄まじいものがあります。
 自分の子と思っていない
鳥羽法皇、それでも父親と思っている崇徳上皇。二人の溝は最後まで埋まることが出来ませんでした。

 
鳥羽法皇の死をきっかけに、両陣営は激しくなりますが、後白河天皇側から挑発を仕掛けます。保元の乱(1156年)の勃発です。
 藤原家、
源氏、平氏たちも親兄弟に分かれ戦うことになり、正に骨肉の争いになりました。

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 結果は崇徳側の敗戦。この戦いに敗れた崇徳上皇は讃岐の国に流刑となります。
天皇もしくは上皇の配流は、淳仁天皇から400年ぶりの出来事になるのでした。

 都に戻る望みは絶たれ、皇位も剥奪され、虚しい日々を過ごす崇徳上皇は、自らの血を使って写経をし京都に送ります。二度と帰れない京の都にせめて自分が書いたお経だけでも戻りたいという願いを込めたのですが、ほどなくして都から送られてきた文箱には、破かれた自分のお経。
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 崇徳上皇は怒りのあまり、庭に飛び出しその場で舌先をかみちぎったといいます。そしてその血で「天下滅亡」という呪いの言葉を書き残し、われは日本の大魔王となりて天皇を呪い続けると呪詛をかけ、数日の後、憤死してしまいます(
暗殺説もあり)。
 呪詛には「天皇を民に貶め民を天皇にする」とあります。そう、天皇を権力の座から引きずり落とし、普通の人間に権力を渡してやるという意味です。

 思えば、崇徳上皇は、自らが復讐のために動く人ではなかったように思います。自分ではどうしようもできない出生から、父の
鳥羽法皇から憎まれ、数々の仕打ちを受け続けてきました。その嫌悪の念は息子の後白河天皇にまで引き継がれ、彼の人生は閉ざされてしまいました。
 この日本の地に天皇家の子として生まれたことを嘆き、呪うことが人生の終着点だったことは悲しいことだとは思います。

◆崇徳上皇の呪いか。次々に起こる厄災

 さて、崇徳上皇の憤死後、後白河法皇の身内に怪異が続きました。まず、後白河法皇の息子の二条天皇が在位中に23才という若さで亡くなります。
その後、息子の后である中宮、自らの女御が一月をあけずに若くして亡くなり、その十日後には孫である六条天皇までが13才で亡くなってしまいます。
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 さらには、翌年の1177年。京都の町の3分の1を焼く安元の大火が起こります。死者は数百人に及び、後白河法皇が暮らす御所も火事の被害に遭います。翌年には次郎
焼亡と呼ばれる火災も発生し、この二つの火災や天皇家に起こる相次ぐ不幸は、崇徳上皇の祟りに違いないという噂も広がります。
 ここへきて、後白河法皇は崇徳上皇を手厚く祀りはじめました。
 しかし、呪いともいうべき厄災は一向に収まりません。その後、平清盛たち平家が権力を握り、源氏の反抗、源平合戦、そして武士が政権を握ることになっていきます。
 戦国時代を得て、農民の出の豊臣秀吉が天下を取るという事態にまで。まさに「天皇を平民に平民を天皇に」という崇徳上皇の呪いが実現したとも言えるのではないでしょうか。

◆崇徳上皇死去、100年毎に繰り返される日本を揺るがす災い。


 崇徳上皇の死を祀100年ごとに式年祭があるのですが、その度に日本の基盤を揺るがしがねない天変地異・国家動乱が起きます。

 崇徳上皇が亡くなったのは1164年ですが、
104年後の1268年には、元に国交を迫られる、元寇のきっかけになる事件が。
200年後の1364年には、皇室を真っ二つに分断した南北朝の動乱が。
そして、303年後の1467年には武家同士が天下を獲る戦国時代への突入のきっかけとなった応仁の乱が起きます。

 

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応仁の乱。京都は壊滅状態になる。


 天下を武家に取られてからは崇徳上皇の怒りは収まったかのようですが、明治維新で再び天皇が国家の中心に戻り、新しい国家体制を作っていくにあたって明治天皇は崇徳上皇に対し、あることを行います。
 それは、自分の即位の礼の際に、700年ぶりに崇徳上皇の御霊を四国から京都に移すという祀りでした。近代国家を築くにあたり、日本最大の怨霊と呼ばれる崇徳上皇に対し和解をするということを行ったのです。
 天皇の巡幸と同じように御輿と400人もの従者を伴った大がかりなお祀りで、崇徳上皇の御霊は京都に戻り、
白峯神宮に奉じます。和解をし、逆に国家の守り神として奉ることにしたのです。

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白峯神宮外観


 日本では、過去非業な死を遂げて怨霊となってしまった御霊を慰めることで、逆に守り神としてそのパワーを利用しようとした歴史があります。日本の神社など調べてみても、元々は朝廷の敵であったという場合も多いですね。
 死者の墓を暴いてまで徹底的に糾弾をする某国とはその思想がまったく異なるのが面白いと思います。
 
 さて、「崇徳天皇」は日本の守り神となってくださっているのでしょうか。
 現在も行われている100年事に行われる「崇徳天皇の式年祭」ですが、800年祭は1964年、東京オリンピックの年に行われました。
 この年は日本の首都東京が大きく発展し、敗戦を乗り越えて再び先進国への仲間入りを果たした年になりました。
 日本の三大怨霊たちは、長い時間を経て、畏怖され、怨霊から神へとその姿を変貌させて生きました。日本人と菅原道真、平将門、そして崇徳天皇との関係は今も脈々と続いているのです。

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蹴鞠の宗家であった公家・飛鳥井家の屋敷の跡地というこもあり、
球技の神様ということで、サッカー選手もよく訪れるそうです。

<関連記事>
→日本の三大怨霊その1
〜菅原道真
→日本の三代怨霊その2〜平将門
→日本の三大怪談


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